『ブラックボックス』

作 市田ゆたか様



【Ver 2.2】

数時間後、ブーンという軽い電子音とともに小百合は目を覚ました。
「ああ、どうしたら…充電率100%。ロックを解除します…えっ」
カチリと音がして、手足に接続されていたコネクタが外れた。
「もしかして…自由になったの?」
小百合はおそるおそる腕を上げて、顔の前でゆっくりと手を閉じたり開いたりした。

「逃げなきゃ。ご主人様にお会いしたら、二度とチャンスはなくなるわ」
小百合はゆっくりと立ち上がった。

恐る恐るドアをあけて左右を見回し、誰もいないことを確認して、小百合は部屋から外に出た。
小百合は廊下に出ると、非常口と書かれた案内板を目指して駆け出そうとしたが、メイドプログラムはそれを許さなかった。
両足がコントロールを失い、バランスを崩した小百合は大きな音を立てて廊下に倒れた。「に…逃げることが禁止されているの?…ううん、違うわ。メイドらしくない行動が禁止されてるのね」
小百合の電子脳の中で何かがカチリと切り替わった。小百合はゆっくりと立ち上がると、背筋を伸ばしてウォーキングドクターのレッスンのように優雅に早足で歩き始めた。

「おい、どこへ行く。身分証明書を見せろ」
非常口の前の詰所から警備員が声をかけた。
「私は、カスタムメイドロボットF3579804-MDです。ロボットですので証明書は持っていません。ご主人様のお使いが正しく努められるかどうかのテストのため外出いたします」
人間であれば言い澱んだり挙動不振になるところを、メイドプログラムは完璧な自信を持って言い切った。小百合はこのときばかりはメイドプログラムに感謝した。
「そういえば、今日は新型のテストをするという通達が流れていたな。わかった、行っていいぞ」
警備員はドアのロックを解除した。

非常口を抜けると、そこは薄暗いビルの谷間の細い路地であった。
路地には、何に使うのか見当もつかないパーツをダンボールに入れて売っている浮浪者のような男や、怪しげなソフトウェアを路上に並べている外国人などがいた。
「ここ、どこ?」
怯えたようにきょろきょろとあたりを見回しながら明るいほうへ向かって歩き、路地を抜けるとそこは大きな町の繁華街であった。
大通りには、コンピュータや家電製品の販売店、壁いっぱいに漫画の絵が描かれた店などの大きなビルが立ち並んでいた。
大通りと交差した高架の上をひっきりなしに電車が走っており、高架下には何を売っているのかわからない小さな店がひしめきあっていた。
町を行く人たちはみなそれぞれの目的以外には無関心のようで、手足と首に金属のリングをつけたメイドという服装を見とがめる者は一人もいなかった。

「とにかく警察に行って、説明すれば」
小百合は線路の高架をくぐったところにある小さな交番を見つけて駆け込んだ。
「お願いです、助けてください」
「どうしたんですか」
若い警察官が言った。
「学校で校長先生に呼ばれて、気がついたら変な工場で、ロボットにされて、逃げてきたんです」
「まあ、落ち着いて、ゆっくり話してください。まず、あなたの名前と住所を教えてください」
「私はカスタムメイドロボットF3579804-MDです。住所は登録されていません」
「あなたはロボットなんですか」
「私は人間です。でもロボットにされたんです」
「人間の名前を言ってもらえますか」
「ロボットにされたときに、無理やり名前を変えられたから、言えません」
「じゃあ住所は」
「それも言えないようにされてしまったんです」
「困りましたね。ちょっと待ってください」
警官は交番の奥に入っていった。
耳を澄ますと、聴覚センサーにどこかへ連絡しているような声が聞こえてきた。
「本署ですか、いま自分はロボットにされた人間だという妙なのが来ているんですが。はい、そうですか、開発元から通報が。なるほど、AIが故障しているんですね。了解しました、こちらで保護しておきます」
小百合は警官の声に恐怖を感じた。
「それじゃあ、ゆっくり話を聞きましょう。最初から順序良く話してください」
奥から戻ってきた警官が言った。
「い、いやよ。あたしを連れ戻す気ね」
そう言って立ち上がると警官に背を向けて交番を飛び出した。
「おい、待て」
警官の声が後ろから聞こえてきた。
小百合は早歩きで雑踏の中に逃げ込んだ。

「警察はだめだわ。一体どうしたらいいの。きゃっ」
小百合は太った男にぶつかった。
「いたたた、気をつけてくれよ。この中には限定品の…」
男はアニメのキャラクターが描かれた紙袋を大事そうに抱えて言った。
小百合は逃げようとしたが、それはメイドとしてはふさわしくない行為であった。
小百合の体は一瞬動きを止めると、男のほうにくるりと向きなおった。
「申し訳ございません。私の不注意で失礼をいたしました。お怪我はありませんか」
そう言って小百合は自動的に男に謝罪した。
「このユニフォームは始めてみるな。新しいメイドカフェが出来たって話は聞かないし、もしかして何かのプロモーション?」
「い…急いでいるので、し…失礼いたします」
小百合はメイドプログラムに拒否されないように言葉を選びながら言うと、つぶやく男を後にして歩き出した。

小百合は繁華街から次第に離れ、ビルの谷間の公園にたどり着いた。
低く垂れ込めた雨雲からぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
「予想稼働時間が1時間を切りました。ああ、どうしたらいいの。1時間じゃ逃げ切れないわ」
小百合は行く宛てもなく、絶望感に体を震わせながら公園のベンチに腰を下ろした。
雨は次第に激しさを増したが、特殊コーティングされたメイド服やファイバー化された頭髪は水滴をはじき、小百合の体が濡れることはなかった。
足元もぬかるみだしたが、小百合の靴を汚すことはなかった。
「とにかく、行けるとこまで行くしかないわ」
小百合はそういってベンチから立ち上がろうとした。
「予想稼働時間が30分を切りました。充電台に戻ることが不可能なため、節電モードに入ります。え…う…動けない」
小百合の体はベンチから立ち上がろうと腰を上げた姿勢のままマネキン人形のように動かなくなった。
「なんでこんなことに…」
節電モードの小百合の自由になるのは首から上だけであった。
それからの30分は地獄であった。
小百合は公園の前を通りかかる人に助けを求めようとしたが、節電モードのため大声を上げることはできず、小百合に気づく者は誰もいなかった。
「予想稼働時間が5分を切りました。救難信号を発信します。だめ、やめて、それだけは…安全のため、ブラックボックスを仮死状態にします」
小百合の意識は闇に沈んだ。
髪飾りの両端から細いアンテナが伸び、電波を発信しだした。
『F3579804-MDハばってりー低下状態ノタメ緊急信号ヲ発信シテイマス。現在地ハ北緯35度41分45.618秒、東経139度46分56.065秒デス…。F3579804-MDハばってりー低下状態ノタメ…』
しばらくして公園の前に小型のバンが現れた。
車から降りた数人の男が小百合をかかえて車内に運び込み、バンはすばやく走り去った



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